第6回 ハンターさんは和魂洋才だった(後編)
明治20年代は不平等条約改正問題が日本外交の大問題でした。神戸居留地で「最も取引も多く信用ある」ハンターさんは、「我々の利益は日本国日本人の賜」であり「その人々の感情を損するがごときは最も我々に不利益を招く」(1)と主張して居留地の反対派を押さえ込みました。大きな発言力があったことが分かります。27年に英国との条約改正が実現し他国もこれに倣い条約改正が成就していきます。
「翁は英人か日本人か其の如何を問われぬほど日本化した人」と評される(2)のも、このような姿勢を貫いていたからこそだと思えます。逝去にあたり「在留外国人中有数の紳商を失いたるは神戸のためにも惜しむべし」(3)と称えられても不思議ではありません。このような日本に対する態度が信頼の基ととなり、これに持ち前のパイオニア・スピリッツと強化された不撓不屈の精神とが合わさって事業の成功につながっていったものと考えます。
大阪鉄工所の開所は英国から技術者を招き、機械設備を導入し操業を始めましたが、前述のように日本人の運営に任せてしまいます。
精米事業にも再度挑戦します。明治20年に「日本精米株式会社」を設立。ドイツ製精米機を据付け、ハンター商会を代理店として海外各国への輸出を試みます。同年10月の同社の広告によると「諸外国の精米凌駕し益々日本米の声誉を挙げ大いに販路を拡張せんことを期す」(4)という意気込みでした。
明治40年頃には同社の「丸十印、旭印は欧州市場における日本白米の唯一の代名詞」(5)といわれるほどになっています。また、同社の精米は灘、伏見の各蔵元で使用され、「酒造原料米に一大変革」の機運を起こしています(6)。この精米事業は、造船業とともに我国に貢献したとして、明治42年にハンターさんが勲五等双光旭日章を授章する理由にもなっています。
また、煉瓦の製造も手がけます。明治22年に操業を始めた「関西煉瓦会社」に出資し、日本人の役員を送り込んでいます。煉瓦製造機械はハンター商会が英国からを輸入しています。同社が製造した煉瓦は、「外国船のバラスト用として多く捌かれ、主にカナダ向け」に輸出されました(7)。
英国人のハンターさんは、自分にとって外国の文化である日本文化を理解しさらに敬意を払い、一方、技術は先進地である西洋から導入し、その事業運営は日本流でやっていたわけです。まさにハンターさんは和魂洋才を実践していたといえるでしょう。
参考文献
- 1「居留地会議延期の理由」朝日新聞、明治23(1890)年9月28日、東京朝刊
- 2「成功者の三幅対 –逝けるハンター氏-」朝日新聞、大正6(1917)年6月4日、大阪版
- 3「ハンター氏逝く」神戸又日新報、大正6(1917)年6月4日、
- 4「日本精米会社広告」朝日新聞、明治20(1887)年10月14日、大阪版
- 5副島八十六『開国五十年史付録』 1908~10年、開国五十年史発行所、177p
- 6副島八十六『開国五十年史付録』 1908~10年、開国五十年史発行所 及び酒ミュージアム公益財団法人白鹿記念酒造博物館学芸員大浦和也様のご協力により閲覧させていただいた明治40年辰馬本家の酒造諸費元帳
また、『月桂冠三百六十年史』平成11年6月26日、月桂冠株式会社、191pに関連記載があることもご教授いただきました。感謝申し上げます。 - 7この段落は平山育男『関西煉瓦会社の舞子移転と煉瓦の製造、社章、ハンター商会のかかわりについて』日本建築学会計画系論文集Vol.84 No.7552019.1、日本建築学会、225pを要約させていただきました。感謝申し上げます。
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