第2回 ハンターさんと愛子さん
ハンターさんと愛子さんの出会いは、三条杜夫氏の『夜明けのハンター』(1)ではとてもドラマチックです。
“ハンターは愛子のそばに駆け寄ると、寝床ごと彼女を抱え込んで、座敷に運び込んだ。うっすらと目を開けた愛子が虫の息で反応した。「あ、ハンターさん・・・」。後が続かなかった。高熱におかされた愛子の熱気がハンターの顔にまで伝わってくる。「ダイジョーブ、ナントカシマス」。ハンターは布団ごと愛子を座敷に下ろすと、鞄の中から幾つかの薬を取りだして、その一包みを愛子の口に含ませた。” 明治元年のことです。
こうして命を取り留めた愛子さんとハンターさんはこののちに結婚します。このときのことを孫の龍平が語っています。「よく効く薬だったそうですが、ばあさんは”まごころという名前じゃなかったかねェ”なんてノロケてましたよ」(2)。愛子さんの性格が伝わってきます。そして夫婦愛は終生のものだったようです。ハンターさんが大正6年(1917年) 6月2日に亡くなった時のことを、ハンター家に仕えた織田ふくさんは「愛子は自分の髪を切り、息を引きとったばかりの夫の手にそっと握らせた」と伝えています(3)。
2人は竜太郎、範三郎、エドワード(英徳)とふじ子の3男1女に恵まれました。竜太郎は大阪鉄工所の第2代目の所主となります。範三郎は鉱山学を学び鯛生金山や見立鉱山などの開発に従事します。エドワードもイシャーウッドとの特許権交渉で活躍します。ふじ子は当社天保山工場長の中村氏と結婚します。英国人のハンターさんにとって愛子さんは、言葉をはじめ日本の文化や慣習を学ぶ最も重要なチャンネルでもあったことは想像に難くありません。仕事も助けていたでしょう。
ハンターさんと愛子さんは神戸市再度山の外国人墓地に一緒に眠っています。お墓の脇には松原與三松社長による碑文があります。「氏はその宏大なる度量をもつて日本を愛し日本人を信じ範多愛子を娶り生涯渝(かわ)ることなく国際結婚の範を示せり」。『七十五年史』には「愛子夫人はよく夫君を扶けて功多く、また愛国婦人会・日本済生会・神戸保育院など、公共事業に力を尽くした稀にみる賢婦人であった。八十九歳をもって天寿を全うしたが、ハンター氏夫妻の場合はまさに有終の美を収めた国際結婚の一例である」とも(4)。愛子さんの写真をもう一度見てみませんか。
参考文献
- 1三条杜夫『夜明けのハンター』2012年、 株式会社叢文社、 73p
- 2読売新聞大阪本社社会部編「国際結婚日立造船の土台築く」『実記百年の大阪』、昭和62年、朋興社、192p
- 3読売新聞大阪本社社会部編「国際結婚日立造船の土台築く」『実記百年の大阪』、昭和62年、朋興社、192p
- 4『日立造船株式会社七十五年史』昭和31年、日立造船株式会社 105p
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