第3回 神戸居留地29番のハンター商会
神戸市の元町駅近くの買い物客や観光客でにぎわう界隈近くに、どことなく西洋の雰囲気が漂う落ち着いた街並があります。かつての神戸居留地です。明治元年(1868年)の開港とともに建設され明治32年まで続いています。外国人が日本に居住し、貿易をすることを認められた地域でした。
ハンターさんは、キルビー商会を経て明治7年10月に神戸居留地29番に「ハンター商会(E. H. Hunter & Co.)」を開き貿易業を営みます。32歳です。現在の神戸市中央区播磨町の播磨町筋と仲町通りの交差点の南西の角だと考えられます。
『百年史』によれば、ハンター商会は「秋月清十郎を同志として、あらゆる商品を扱ったが、中心は建築機械と材料・機械工具・塗料等であった」。居留地だけでなく国内にも洋風建築が流行することを見越しての「先手」を打っていたと記されています(1)。ハンター商会は明治10年の西南戦争を契機にその基礎を固めます。 明治30年には、ハンター商会は鉄類、諸器械、洋酒、薬品の輸入、アンチモン、マンガン、銅、硫黄、石炭の輸出、建築土木請負、日本精米株式会社一手販売、大阪鉄工所代理店といった業務をしていました(2)。大正7年頃には「本店を神戸市播磨町に置き大阪、東京、京都、横須賀、呉、小倉、台北、朝鮮、大連及び遠く倫敦(ロンドン)、紐育(ニューヨーク)の各地に支店又は出張所を設け商勢・・旺盛を極め」(3)ています。
さて秋月清十郎は、ハンターさんとキルビー商会の同僚でした。大阪鉄工所の設立に当たっては、ハンターさんらとともに1万円を出資しています。明治14年9月21日の朝日新聞の広告(4)では「鉄工所取扱人」として掲載されています。「剛愎(ごうふく)にして・・云い出したる上は・・やりとおすの勇気あり」(5)という人でした。また、明治20年代半ばには「大阪鉄工所総理秋月清十郎は・・千辛万苦・・今や府下紳商の一人」(6)といわれるまでになっています。一念をやり通す性格の結果だと思います。
長崎居留地には明治維新前後に貿易業として活躍した「グラバー商会」がありました。文久2年(1862年)の開設です。その後グラバーは炭鉱の開発や造船業も手がけますが明治3年(1870年)には破産してしまいます。一方、ハンターさんも貿易業から造船業などへと新分野に挑戦していき、そして「日本を拠点に成功した企業家」(7)となりました。ハンターさんの成功は、同志秋月清十郎以上に強力な意志の力の賜だったと思えてなりません。
参考文献
- 1『日立造船百年史』昭和60年、日立造船株式会社、6p
- 2田井玲子『外国人居留地と神戸』2013年、神戸新聞総合出版センター、202p
- 3五十嵐栄吉編『大正人名辞典下巻』1987年、底本『大正人名辞典』第四版 大正7年 東洋新報社、日本図書センター
なお、この時期にはハンター商会は「合名会社範多商会」となっている。 - 4『川口居留地3』川口居留地研究会1994年64p
- 5米倉萩露著『当世人物管見』明治26年、米倉領次郎発行、1p
- 6吉弘白眼著『当世名士譚』第一巻明治25年、米倉領次郎発行、98p
- 7杉山伸也 『日英経済関係史研究1860~1940』2017年、慶応義塾大学出版会株式会社、28p
- 写真4
朝日新聞 発行年月日18810921 掲載面4 広告
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