第5回 ハンターさんは和魂洋才だった(前編)
大正6年(1917年)6月2日午後8時ハンターさんは永眠します。享年75歳。当時の新聞では、会葬者は「内外人紳士紳商及び婦人有志者数百名に達し・・生花花環等二百余に及び」、「故人の生前を追懐して涙」する人も多かったとのことです。葬儀はキリスト教式でしたが、葬列には「仏教婦人会」の旗も押し立てられていたとあります(1)。そして「英本国より裸一貫にて日本に渡来し我実業界に奮闘すること茲(ここ)に十数年、いまや巨万の富を積む、立志伝中の人」(2)と回顧されています。
ハンターさんは来日外国人として経済的のみならず社会的にも大成功を収めたと言って過言ではありません。しかし、このような成功までの道のりは決して平坦なものだけではなかったようです。ハンターさんと秋月清十郎は、大阪鉄工所の操業開始初年度から様々な事業も企てています。アンチモニー鉱山や精練の事業に挑戦しますがうまくいきませんでした。また精米所を開設しますが、火事で全焼してしまいます。製紙業もうまくいかず、明治17年には大阪鉄工所を大阪財界の巨商門田三郎兵衛に譲ることになります(3)。
『百年史』には、頼るべき保護もなく、すべて自ら創造し、自ら築き、しかも苦難は自ら負うよりほかにない状況の中で、ハンターさんの「不撓不屈の開拓者魂は、一層強められた」(4)と書かれています。実際、翌18年にハンターさんは大阪鉄工所の経営に戻ることになり再建に取り組みます。そして大改革を行います。19年には「一切外国人を解雇し日本人の手のみにて工事を担当(させ)・・却(かえっ)て工事はかどり次第に盛大に赴く勢いなれば、追々は鉄船も製造する」計画を立てるまでになっていると報じられています(5)。その後大阪鉄工所は日本の三大造船所に成長していきます。
このような成功には確かに「開拓者魂」が必要でした。しかし、これだけでは十分だったとはいえません。ハンターさんの日本や日本人に対する敬意を持った姿勢が、成功のレシピのもう一つの大事な要素です。配偶者に愛子という日本人女性を迎え、竜太郎らをもうけます。さらにビジネスのパートナーとして秋月清十郎とタッグを組み、会社の大改革は日本人の手に任せます。西洋風の住宅も作ったけれど、晩年は和風の住宅に住み、その庭には桜を植えています。ハンターさんは日本の社会、経済、文化を深く理解し、日本社会にしっかりと根を張っていたのだと思います。
参考文献
- 1「ハンター氏葬儀」朝日新聞、大正6(1917)年6月6日、大阪版
- 2「成功者の三幅対–逝けるハンター氏-」朝日新聞、大正6(1917)年6月4日、大阪版
- 3『日立造船百年史』昭和60年、日立造船株式会社、12~13p
- 4『日立造船百年史』昭和60年、日立造船株式会社、12~13p
- 5「安治川鉄工所」朝日新聞、明治19(1886)年2月20日、大阪版
なお、『日立造船百年史』の18pも参照
各種お問い合わせはこちら